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この1本が終ったら
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 夕暮れ時。
 空は茜に染まり、雲ひとつ無い。
 吹く風は木枯らしのようで、上着も持たず屋上に出てしまい、男は寒さで身を抱えた。
 男はこのビルに入っている会社で働いている。
 終日禁煙の社内では煙草を吸うことが出来ず、唯一喫煙できるこの場所に来るのが、男の入社以来十数年間の日課であった。
「って、別にここに来る必要ないんだよな」
 体を丸めながら次第に暮れゆく空に目をやる男の口元には、煙草ではなくおしゃぶり昆布がくわえられていた。
 禁煙二日目、早くも禁断症状の出かけている体を落ち着かせるため、彼の奥さんが持たせた秘密兵器だった。
 奥さん曰く、
「私はこれで、ダイエットに成功したわ」
 ということだが、
「何か違うよな……」
 柔らかくなった昆布を噛みながら、今更のようにぼやく。
 屋上の出入り口から離れ、手すりの方へ向かえば、紫煙が風に舞う。喫煙仲間が調度煙を吐き出していた。
「はぁ」
「んな恨めしそうに溜息付くくらいなら来なけりゃいいだろ」
 男の気配に気付いた同僚が、振り向きもせず言った。その声は心なしか楽しそうだ。
「チャージだよ」
「副流煙でか。意味無くないか、それ」
 男は同僚に無言で反抗する。
 その間にも同僚は無造作に煙を肺に入れ、呼気と共に吐き出す。同じ銘柄の煙草を吸っていたため、その香が心地良い。
一昨日最後に吸った時が遙か昔に感じるほどだ。
「吸うか」
 吸いかけを差し出され男は止まる。
 いつの間にか昆布は飲み込んでしまっていた。
 少し悩んだ結果、男は同僚からそれを受け取る。
 同僚はしたり顔で男を見たが、次の瞬間呆気に取られた。
 男がそれを吸うことなく灰皿に擦り付けたからだ。
「もったいねぇなあ」
 たった今消された煙草は、まだ半分以上を残した状態で灰皿の中の水に浮かんでいる。
「ふん、俺が我慢しているのにお前だけ堂々と吸ってるなんて不公平だ」
 男の拗ねたような横顔に同僚は呆れた。
「だったら禁煙なんでしなけりゃいいだろ。何でんなこと始めたんだよ」
「……から」
 ぼそぼそと答えた男に同僚が尋ね返すせば、男はそっぽを向いたまま同じ台詞を繰り返す。
「嫁さんが、いい加減止めろって言うから」
「……そっか」
「ああ」
 財布の紐を奥さんに握られて以来、何かと立場が弱い。
 しかも男の体を思っての発言だと知っているため、強く文句も言えない。
「辛いな……」
「ああ……」
 赤かった空も、東の方から藍色に変わってきている。高いビル群に阻まれて、太陽は既に見えない。
 同僚は徐に懐から煙草をもう一本取り出し、火を点ける。
 薄暗くなった場では、この日の光がより一層際立つ。
「やっぱ、一本いいか」
「ほい」
 箱を振って一本差し出されたそれを男が慣れた手つきで受け取る。すると同僚も心得ており、ライターを差し出し男が加えたそれに火を点ける。
 男の口から紫煙が燻る。
「いいのか」
「ん?ああ。これ吸い終わったら、また頑張るよ」
「そっか、まあ頑張れ」
「ああ」
 言葉と一緒に白い煙が空へと昇る。
 この場所自体嫌いではない。しかしこの寒空に下、煙草を吸う以外に長居をしようとは思えない。
「さてと、もうひと頑張りしますかね」
「だな」
 残業と言うほどのことはないが、日報と言う本日の業務の締めがまだ残っている。後ほんの十分にも満たない作業の時間が我慢できず煙草吸いにきた男達は、煙草を吸い終わった今その寒さから逃げるように屋内へ入って行った。

FIN.

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