外廊下を照らす明かりの明るさに空を見上げる。
「満月か」
秋の夜空は澄んでいて月がいつもより綺麗に見える気がした。
そのあまりにも美しい月に見惚れていると、不意に声をかけられた。
「あんた、こんな所で何してんだ」
「法師様」
向かって来る人物を認めて視線を移すと、目の前まで歩み奇って来た丶大も空に視線を移す。それに釣られるようにして私も再び空を見上げた。
「なるほど、今日は中秋か」
「中秋ですか」
「ああ、中秋節とも言うな。一年で一番月が綺麗に見えるってんで、宮中では月見の宴なんてものも開かれるらしいな」
「宮中、京のですか？」
「ああ、そうだ。まあ俺達には縁の無え話しだがな」
「そうですね」
全くその通りなので頷いてしまう、縁が無いどころか宮中だ京だと言われても想像も出来ない。
そんなことよりも、
「では、運が良いですね」
そう言うと丶大は首を傾げた。
「確かに綺麗な月だが、月だぜ。なもんいつでも見れるだろ。酒でも持って来て月見で一杯って言うなら別だがよ」
その言いように思わず苦笑してしまう。
法師の台詞とは思えない発言だな。
「そういうのはちゃんと還俗してからにして下さい」
「相変わらず手厳しいな」
「法師様がいい加減過ぎるんですよ」
そう言うと斜め上からため息が降って来た。
「あんた、段々可愛気がなくなって来てねえか？」
「それは、悪かったですね」
軽口だと分かっていても返す口調が尖ってしまう。
きっとこういうところも可愛気が無いのだろう。
そんなことを考えている自分自身にふとため息を吐く。
（いつからこんなことを思うようになったんだ）
こんな女々しいこと。
男として育った私だ、可愛いなんて言われた事も無かったし、それについて不満も無かった筈なのに。
（私は可愛いと、言われたいのか？）
言われたらそれはそれで恥ずかしいけれど、言われて悪い気はしない。
ふと見上げると、丶大と目が合った。
（見られてた!?）
一人でぐるぐると考えていたのを見られていたかと思うといたたまれなくなる。
恥ずかしさを誤魔化すように丶大から視線を外らして月を見る。
何一つ次けた所の無い月だ。
「いいじゃあないですか」
「何がいいんだ」
私の唐突な発言に丶大は首傾げる。
（それはそうだよな）
何の前ぶれもなくこんなことを言われれば誰だって不思議に思うだろう。
月を見ながら苦笑する。
「何も欠けたところの無いものなんて、他にありはしませんよ」
まだ腑に落ちないのが、丶大は黙っている。
「こんな月を法師様と二人で見ることが出来たのですから」
しかも何の約束をした訳でもないのに、偶然一年に一度の月を同じ場所で見上げている。
「お酒なんて無くったって、充分幸せな気持ちになれます」
だからやっぱり運が良い。
丶大を見て笑うと、彼には珍しくぽかんとした顔をしていた。
（呆れられたかな）
考えて見れば供っぽい発想だ。
この沈黙がいたたまれず、出来ることなら早々に何が言って欲しい。
「前言撤回だ」
保けたままで呟くと、丶大は私を見つめて笑った。
愛おしい者を見る暖かい視線を向けられて、先程の羞恥とは遣う気恥ずかしさ頬が紅潮する。
「あんたは充分可愛いよ。可愛過ぎてたまにどうしていいか分からなくなる」
見つめ合い、丶大の手が私の頬に伸びて来る。
秋の涼やかな夜風に当たっていた頬に、その手の温かさが心地よい。
その心地良さに目を閉じると丶大の顔が近付いて来る気配がした。
そのまま口付けされると思った瞬間、私は思わず顔を背けてしまった。
「おい」
不機嫌な声に視線を戻すと、同じように不機嫌な顔で見降ろされる。
「だって、恥ずかしい、です」
「恥ずかしいて、別に誰も見てねえだろう」
夜も更けた外廊下だ、確かに人影は無い。
だがそういう理由とは別の気恥ずかしさだ。明確な理由を説明できず、
「つ、月が、月が見ています」
苦しい言い訳しか思いつかない。
「それに、せっかくの月なんですから、見ないと勿体ないですよ」
反論される前に慌てて畳みかけると、
「あんたは月が好きなんだな」
「は、はい。好きですっ」
勢いよく頷いてしまった。
別に嫌いではないが、ここまで断言するほど思い入れがあるかと言えばそうでもない。ただ月好きな発言をした手前、どちらでもないとは言いづらい。
う、嘘っぽかった？
沈黙が続くと不安になり恐る恐る丶大を見ると、彼は目を組めて笑みを見せた。
何か悪戯を思いついた子供の様な目だ。
「そんなに好きなら取ってやろうか」
は、月を取る？
一瞬驚いたが、少し考えると丶大の考えている事が大体分かった。
「桶に水を張って水面に写った水をすくってみせる、なんて頓知ならいりませんよ」
先手を打つと、チッと舌打きが聞こえてきた。
「法師様は一体どこの頓知小僧ですか？」
「これはだな、今は昔三代将軍義光公の御代にいた高名僧でだな」
「聞いてませんよ」
「まあ聞けよ。この坊主、実は後々はかなりの破壊僧でだな、剃髪ではないばかりか酒は呑むは肉は食らうは女は抱―――」
「子供夢を壊すような事は言わないで下さいっ」
私はもうそれほど子供という歳ではないしここには他に誰も聞いてはいないのだが、この話しはここで止めた方がいい気がした。
それに、それが破壊僧と言うなら法師様だって『不良法師』を通り越して『破壊法師』ということになってしまう。
「ほらもう、そんな事より月を見ましょう」
「ここでか？」
言われてみればここは外廊下で、月をのんびり楽しむような場所ではない。
「では、散歩をしませんか？」
この時間だ、城外に出るのは無理でも城の中庭だって充分趣がある。
「はぁ、仕方ねえなあ。今夜はあんたに付き合ってやるよ」
「ありがとうございます」
月のおかげで思いもよらず法師様と夜の散歩をする事ができた。
月明かりが夜の庭を照らし、見慣れているはずの景色が違って見える。虫の声が近くに聞こえて、それ以外の音は何も無い。
庭という解放された場所でありながら二人だけの閉じた空間のような錯覚がして、自然と丶大に近よりその手に触れる。
丶大は一瞬驚きを見せたが、そっと手を振り返してくれた。
（温かい）
丶大の温もりを感じながら再度月を見上げる。
何一つ欠けたところの無い月が見える。
こんな満月のような幸せを望んだこともあったけれど、それには手が届かなかった。
それでも今は愛する人が隣にいて、こうして同じ月を見上げている。
特別好きという訳でもなかった月が、この時だけは特別なものに見えた。
了