夕食時の帽子屋屋敷で恋人と二人食時をしている。 今は他に人がおらず、穏やかな時間が流れる幸せな一時……のはずだ。 少なくとも世間一般ではそう形容される時間で、私だって恋人と過ごす時間が嫌いなわけではない。 目の前のテーブル一面を埋め尽くすオレンジ色さえ無ければ。 このオレンジは窓からさし込む斜陽のせいでもなければ、オレンジや南瓜あるいはクチナシなどの着色料を用いた物でもない。全てはアノ食べ物によるものだ。 以前はブラッドがアレの名前を口にしない事を大人気ないと思っていたけど、今ではその気持ちが良く分かる。 そのオレンジ色をした料理を美味しそうに食べている人物(ウサギだけど)こそ私の恋人、エリオットだ。 付き合い初めた当初はその好物を食べないと言い張っていたが、「無理はよくない」「たまに食べるくらいはいいんじゃない?」と説得すると、 「そうだよな、俺が食べないんじゃあアリスまで食えねえ、それじゃああんたが可哀想だもんな」 気付いてやれなくてすまねぇ、と本気で謝まって来た時にはこいつ大丈夫かと心配したくらいだ。 それでもそう誤解されてまでオレンジ色の料理を彼に勧めたのは、自分自身の可愛さ故であって決してエリオットのためではない。 何故なら、あのままエリオットをほっておいたら、私が本当に食べられそうだったからだ。 形容でも何でもなく、好物を食べなかったエリオットはその囗寂しさかストレスかで私の事を舐めたり噛んだりしていた。 何が楽しいのかと思いながらもそれを放置していると、初めは甘噛みだったのにいつの間にかガリガリと齧り始めた。 このままでは本当に食べられる、まではいかなくとも、体中に噛み痕が付いてしまって痛い以上に居たたまれなくなり、先程の流れになってしまった。 (まさかこんな事になるなんて) 目の前のオレンジ色からつい目を背けてしまう。 あれ以来、私も同類の嗜好を持っていると勘違いしたエリオットは食事の度にオレンジ色を食卓に並べるようになった。 食卓を見ないようにしながら唯一違う色をした飲み物を口にしていると、 「アリス全然食べてねえじゃねえか、どこが悪いんじゃないか?」 心配そうに私を覗き込んで来る。 「調子は悪くないわ、本当よ」 そう言って微笑むが、自然と疲れが顔に出てしまったのかエリオットは引き下がってはくれなかった。 「そう言って前回もその前も、このところまともに食ってないぜ」 「それは、たまたまエリオットと食事をする前の時間帯に食事をしてしまったり、そういうことが続いただけよ。食事はちゃんととっているわ」 オレンジ色をしていない食事ならエリオットのいない時にしっかり食べている。私だって仕事をしているのだから食べなくては倒れてしまう。仕事を任されているなら健康管理も責任の内に含まれる。 いくら食事はしている、調子は悪くないと言ってもそれが続いているせいか、エリオットも懐疑的になっているみたいで中々納得してもらえない。 「もしかして、他に食事をしたい奴がいるのか?」 それどころか、不安そうな目をしてそんな事を言い出した。 私だってこの世界に来てかなりの時間を過ごしてきたのだから、個人的な付き合いはある、そうなればエリオット以外とも食事をする機会はあるし、友人として食事やお茶を楽しみたい相手はそれなりにいる。 「他の人と食事をする事もあるわ、たまたま一緒になることもあれば招待を受ける事もあるもの」 そういうことを聞いている訳ではないと分かっていてもフォローする気にはなれなかった。 それもこれも目の前のオレンジ色が悪い。別に食べ物やそれを作ってくれた人のせいではない。全ては毎回毎回、毎回毎回毎回、毎回毎回毎回毎回毎回毎回毎回毎回毎回毎回毎回毎回毎回毎回毎回毎回毎回毎回毎回毎回毎回毎回毎回毎回毎回毎回毎回毎回毎回毎回毎回毎回毎回毎回毎回毎回毎回毎回毎回毎回毎回毎回毎回毎回毎回毎回毎回毎回毎回毎回毎回毎回毎回毎回毎回毎回毎回毎回毎回毎回毎回毎回毎回毎回毎回毎回毎回毎回毎回毎回毎回毎回食卓をオレンジ色に埋めてしまう目の前のウサギが悪い。 そう思うと我慢するのもバカらしくなってきた。 「エリオット、ごめんなさい」 「どうしたんだよ、急に」 急に謝まる私に当然の事ながらエリオットは戸惑っている。戸惑うよりも寧ろ狼狽えていると言った方がいい。 「あのね、エリオット。私ね本当は……」 食の好みだ、ここまで遠慮することはないと思いながらも、目の前で本当に美味しそうにそれを食している人を前にキライだとは言い辛い。 「本当は、何なんだよ。もしかして、本当体調が良くないのか?だったら今日の予定を変更しても」 「好きじゃないのっ」 これ以上黙っていて勝手に病人にされては堪らない。 エリオットの言葉を遮り言い切った。 「は、え?」 いきなりの事に余計狼狽えているエリオットに私は言い訳をするように言葉を続けた。 「好きじゃないというより、寧ろ嫌いなのよ」 「それ、どういう意味だ?」 傷付いた目をしている。 普通は食べ物の好みくらいと思うけれど、本当に好きでだから私も同じ物が好きだと知って(勝手に思い込んで)、とても喜んでいたのを思い出すと胸が痛くなってくる。 「別に初めから嫌いだった訳じゃないの、だからって好きって話でもなかったけど、でも珍しかったし興味もあったから。だけど付き合っているうちに段々飽きてきて。余りにも多過ぎて今では見るのも嫌なくらいなの」 「そんなに、嫌だったのか?」 「……本当に、ごめんなさい」 重くなる空気に堪えられず俯いてしまう。 少しオーバーに考えるところがあるのは知ってたけど、 (何で食事一つでここまで深刻にならないといけないのよ) 申し訳ない思いが段々苛立ちに変わって来る。いっそ文句でも言ってやろうと顔を上げた時、エリオットは言葉無く立ち上がり私の側まで来ると、私の腕を引っ張り上げた。 「エリオット?」 「ちょっと来てくれ」 「何言ってるの、何処に行くのよ」 「いいから来いよ」 そう言って問答無用で私を引っ張って行く。 (怒ってるの?) 怒っているようでいて、悲しんでいるようにも見える。 「エリオット、痛いわ、ちょっと、いい加減に」 「黙って付いて来てくれ」 その迫力に気圧されて、小走りどころが全速力に近い速度で引っ張られて行った。 行き先はエリオットの部屋だったようで、部屋の戸を開けると投げられるようにして部屋に放り込まれた。 何とかバランスを取り倒れて込みはしなかったものの、そうなってもおかしくない扱いに頭い血が昇ってくる。 「一体何なのよ、どうして急に」 「それはこっちの台詞だ、あんたからしたら急じゃなかったのかもしれない。けど俺からしてみれば急過ぎて訳が分からねえ」 「訳が分からないのは私の方よ、こんな風に部屋に連れて来てまでする話しじゃないでしょ」 何度も言うが、たかだか食の好みの話しだ。次から他の料理にしましょうで事足りる。どうしてもエリオットが食べたいと言うのであれば私だけ別の料理にしたっていい。 「俺から言えばあんな所で話せることじゃあねえと思うけどな」 視線が痛い、どうしてそんな目をしているのか理解ができない。そんな、軽蔑したような目で見られるような事、した覚えが無いのに。 「けどあんたにとってもこっちの方がいいはずだぜ」 凄みをきかせて迫って来る姿は初めにこの屋敷を訪れた時のエリオットに似ていて、思わず後ずさってしまう。 そんな私を逃すまいと、ジリジリと迫られ気付けば机の側まで追いやられ逃げ場が無い。 相手はエリオットだ、逃げる必要は無いと思いながらも切迫した空気から逃れようと横に回り込もうとしたが、机の端に両側から手を掛けられ、机の上に押し倒されるような姿勢になった。 「言ったよな、俺はあんたを手放すつもりはないって」 押し倒されて凄まれているのに、机の上で皺になっている書類の方に気が行ってしまう。 (一体何の話しをしているのかしら?) 話しが噛み合ってない事は分かった。 そうなると凄まれても通り抜けでしまうだけで恐怖は無くなっていく。 「あんたが俺から離れて行くなら、俺はあんたに何をするか分からねえ」 耳に息がかかるほど近付いて、囁くように告げてくる。 「な、他の奴が唯もいねえ所の方が良かっただろ?」 冷徹とも取れる笑みを浮かべ、さも名案だったかのように言うが、全く話しがずれている。 「私、あなたから離れるつもりは無いわよ」 「ダメだ、あんたが何を言おうと離……れるつもりは無い?」 「ええ、離れるっもりは無いけど、離れるの?」 混乱してぽかんと私を見下ろすエリオットを試すように見上げると、勢い良く首を横に振る。 「離れねぇ、離せって言っても離さねえ」 「私もよ、何の問題も無いじゃない」 なのに何でこんなことになっているのか半ば呆れてくるが、取り敢えずよくない誤解は解けたようでエリオットは目に見えて安心している。 「いや、でもよ、アリスは俺の事もう好きじゃないんだろ、見るのも嫌だって。それどころか初めから興味本位だったって」 誰だよ、その悪女は。 そう言おうとして思い止まる。 (……あれ?) 「ねぇエリオット」 もしかして、 「私、何が嫌いか言ってなかった?」 あの料理を前にした時の会話を思い出してみる。 自分では言ったつもりだったけれど、今思えば肝心なことを言ってなかった気がする。 「言ってねえよ、言ってないから俺はてっきり、アリスはもう俺の顔を見るのも嫌になったのかと思ったんだ」 目が必至だ、心なしか耳が垂れている。 「ごめんなさい、私の言葉が足りなかったみたい」 あの言葉を避けるあまり、言葉に出ていなかった事に気付かなかった。 「でもその前に、誤解も解けたことだし、そろそろ退いてくれないかしら」 中途半端に机に押し付けられたままの態勢はさすがにきつい。反った状態の腰が悲鳴を上げ始めている。 「ああ、すまねえ」 慌てて私から離れ、状態を起こすために手を貸してくれた。 「けどこのままの格好もそそられるというか」 「何か言った?」 ボソボソと呟くエリオットに笑顔で尋ねる。 「いや、なんでもねえ」 白々しい。 けれど聞かなかった事にしておいてあげる。 「取り敢えず落ち着きましょう」 そう言ってベットに腰をかけると、それに倣ってエリオットも隣に腰を下ろす。 「あのね、エリオット。私が嫌いなのは」 時間が経つと言いにくくなるが、今を逃がすとまたあのオレンジ色……じゃなくて、ニンジン料理地獄を味わうのだと思うと言うしかない。 「ニンジン料理なの」 「は?」 そう言ったまま動きが止まる。 大騒ぎした結果がこれではその反応もおかしくはない。 「え、え〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」 「な、何よ。そんなに驚くこと?」 呆れられるのは想定内だったが、ここので驚かれるのは想定外で逆に私が驚いてしまう。 「だって、あんなに美味いもんが嫌いだなんて、信じらんねえ」 そう言うと今度はその目に憐れみの色が滲んでくる。 「アリス、人生半分以上損してるぜ」 「するわけないでしょっ」 「いいや損してる、今してなくても絶対損する事になる」 何だか先物取引や絵画や骨董のセールスマンのような事を言ってくる。 「しない、しないから大丈夫よ」 「体にだっていんだぜ、栄養不足になっちまう」 「人参料理を食べなくったって栄養不足にはならないわよ。それに、私が嫌いなのは人参料理であって人参じゃあないもの」 どこがで聞いた台詞だ。ただしあれは逆の意味だったけど。 けれど不思議なことに、他の料理に入っている人参は嫌ではない。サラダに入っている生の人参だって食べれてしまう。 「じゃあアリスは人参が好きなのか?人参料理じゃなくて人参が」 意外そうに言われるが、あのオレンジ色一色の食べ物を飽きもせず食べ続ける人間、ではなくウサギには言われたくない。 「別に人参が好きって訳じゃないわ、他の料理に入ってるのは食べられるってだけで」 「何だよ、他の料理に混ぜないと食べれないなんて、アリスって子供みたいだな」 そう言って笑うが、あのオレンジ色…以下略。 「毎日好きな料理しか食べない方が子供だと思うわよ」 エヤリと笑うと、思うところがあるのか押し黙った。 「そうだな、分かった」 目が真剣になっている、こういう時はろくな事を思い付いていないと経験から分かる。 「俺もアリスの食事に合わせるぜ」 (今回は意外にまとも――) 「人参料理はもう食わねえ」 ではなかった。 それをすると一時は良くてもストレスになり、少し前の状況に戻りかねない。 (何でこうも極端なのかしら) 少し呆れながらエリオットを思い止まるよう説得する。 「別にエリオットは我慢しなくていいのよ?」 「でも、見るだけでも嫌なんだろ?」 つい先程言った言葉を思い出す。 (確かに言ったわね) だがあれは参人料理を前にして勢いで言ってしまっただけだ。まああの時はかなり本気だったけど。 けれど自分が食べなくていいのなら話しは別だ。 自分が嫌いだからと言って相手にまで嫌いになれなんで言うつもりは無い。 「エリオットは貴方の好きな物を食べて頂戴、その代わり私も好きな物を食べるから」 ねっ、と駄目押しすると下がり気味だった耳がピクンと立ち上がる。 そして更には、目までキラキラと輝いていた。 (何か琴線に触れるような事言ったかしら) 見た目に反して色々な所が可愛いいウサギさんだが、この目には慣れそうにない。 「あんたって本当に優しいよな」 少し興奮した口調の後、 「こんな優しい恋人を持てて幸せだぜ」 なんて事をしみじみと言わないで欲しい。 (どこを見て言っているのかしら) 自分の好きな物を見たくない程嫌いだ、と言った女に向ける言葉では無い。 「別に優しくなんて無いわ」 「そんな事ねえって、あんたは優しい。だってよ、本当は見たくない物なのに俺の為に我慢してくれるんだろ?」 「まあそうだけど…」 そこまで言う程の事では無い。 「だろ?やっぱりそうだよな、アリスが我慢してくれてるんだ、俺だって我慢するさ」 「だからしなくていいって」 堂々巡りになりそうでげんなりとしてくる。 「それとも何、エリオットが我慢する分私も我慢しなくちゃいけないの?」 「いや、そう言う訳じゃあねえさ、俺はあんたに我慢なんてさせたくねぇ」 「私だってそうよ、我慢なんてよくないわ」 こんな世界でも我慢しなくなはならない事は割とある。 (ここの屋敷の主は我慢なんて無縁そうだけど) でもそれならせめて、食事くらい好きな物を食べたっていいだろう。 勿論偏食はよくないが、ずっと我慢する事はない。 「そっか、我慢はよくないか」 「そうよ、私に合わせて我慢なんてしないで頂戴」 ついエリオットの言葉に釣られてそう言ってしまったが、言った瞬間しまったと思った。 「俺さ、実はもう一つ我慢してる事があるんだ」 そう言うと先程までの体制に逆戻りするようにベットに押し倒される。 「私が言ったのは食べ物の話しよ?」 「嫌なのか?」 不安そうに、けれど否とは言えない迫力を滲ませて問いかけてくる。 「嫌ではないけど」 エリオットの気が済むまで付き合っていたら私がもたない。 「ならいいだろ?我慢は体によくないんだろ?」 ニヤリと笑いキスをしてくる。 初めは浅く次第に深くなった口付けは、その熱を残したまま首筋に下りてきた。 別に嫌ではない、嫌どころか……だけど、このまま好きにさせるのは負けたみたいで癪に障る。 ふと目の前で動くふわふわと温かい物を掴んだ。 上がる体温に比例してそれも平時より少し熱くなっている。 「アリス?」 先程までの熱っぽさが急劇に下がっていくのを感じた。 意図して掴んだ訳では無かったけれど、この好機を逃すほど私はお人好しではない。 「我慢、しなくてもいいのよね?」 今度は私がニヤリと笑う。 「えっと、アリス、ちょっと待て」 「だって、私ももう我慢できないんですもの」 「いやいや、ちょっと持て。それ色っぽいの言葉だけだからな――って持て持て持て持て」 少もカを込めるとエリオットの目が涙目になって、必死に訴えてくる。体勢では未だにエリオットの方が有利だったが、主導権は完全にこちらに移った。 「いや、その、我慢もたまには必要だと思うんだ」 「えー」と言って見せながらも耳から手を放すと、安堵からか落ち込んでいるからなのか耳が垂れ下がってしまっている。 「そうよね、たまには我慢も大切よね」 (今度何かで埋め合わせしないとね) 心で手を合わせながら顔ではニヤリと笑って見せた。 FIN.