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清水恵の乙女的恐怖のバレンタイン事情
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「うふふふふ、これで夏野くんのハートは私のものっ、なーんてね」
 チョコレートを湯銭に掛けながら清水恵は「やだ〜」と体をくねらせた。
 明日はバレンタイン、恋する乙女の為の記念日だ。
 この日の為に恵はあらゆる準備を進めていた。
 本屋でチョコレート菓子の本を買い、悩んだ挙句普通のチョコレートを上げることにした。
 生チョコやトリュフなら簡単に作れそうだが、中学生のお小遣いで溝部町まで行き、チョコレートと生クリームを買ってくるのは難しい。
(こんなことならお年玉とっておけば良かった)
 お年玉はどうしても欲しい服や靴、小物にバッグ、そういったものにつぎ込んでしまいほとんど残らなかったのだ。
かといって母親の買ってくる服は、幼馴染の田中かおりが着ているようなダサいものばかりで着る気にはなれない。
(でもあんな両親と買い物なんで行きたくないし)
 一緒に歩くのも恥ずかしい、今の恵は調度そういう年頃だ。
 そしてそんな年頃の少女の感心事と言えば『恋』である。
 更に明日はバレンタイン、この日を逃してなるものかと恵は息巻いている。
その方向性は少し危険な方向に向かっているのだが、その事を知る物は本人を含めて誰もない。
 父親はなにやら心配そうに、台所に立つ恵をチラチラと気にしているが、それは年頃の娘を持つ父親特有のもので恵の行動に対するものではない。
 母親に関してはそんな二人を微笑ましく見守っているくらいだ。
「えーっと、確か仕上げに血を一滴入れるんだったわよね……」
 裁縫箱から持ち出した待ち針を人差し指の腹に突きつけ、喉を上下させる。
 注射の針を思えばたいした事はないはずなのに、この一突きに躊躇してしまう。
「これも結城君の為よ、恵」
 決して結城夏野の為になる筈もないのだが、少女の暴走は止まる所を知らない。
「えいっ……………った〜」
 指先は神経が集まっている為に針のほんの一突きでも痛いのだが、しかし痛みは一瞬だ。
 刺した部位から円く浮き上がるように出てくる血を絞り出し、湯銭によって溶かされたチョコレートの中に一滴落とす。
「うふ、うふふふふふ。後はこのハートの型に流し込んで」
 不気味な笑い声と不明瞭な鼻歌が自然と込上げてくるが本人は全く気付いておらず、時に上がるそれらを不安げに盗み見る父、清水武雄の姿にも当然気付いていない恵であった。

 + + +

 時に、そのような恐ろしい黒魔術紛いのチョコレート作りが行われているとは露知らぬ結城夏野は、武藤徹の部屋で雑誌片手に寛いでいた。
 その夏野の背筋にゾクッと悪寒が走り体を小さく震わせる。
「どうした夏野、風邪でも引いてるんじゃないか」
 雑誌から目を離さない夏野の顔を覗き込んで、子供の熱を測るように掌を額に伸ばす。
 夏野はそれを緩慢な動作で払いのけ、
「いや、大丈夫。ちょっと寒気がしただけだから」
 というか嫌な予感を感じ取ったという感覚なのだが、夏野自身それに気付く筈もなく、
「あと、名前で呼ぶなって言ってるだろ」
 雑誌から漸く目を離したかと思えば、ねめつけてその一言。
「わかったわかった、それよりさ夏野」
 ゴツンと徹の頭に雑誌の角が落ちる。
「痛って〜、何すんだよ夏野」
「だから、俺の事を名前で呼ぶなって言っただろ」
 頭を抱えてうずくまる徹に対し、夏野は立ち上がってそんな徹を見下ろしている。
(怖〜)
 とか思いながらも、普段突慳貪つっけんどんな弟分のそんな態度が楽しくてしかたがない。
 だからといって、別にからかって遊んでいるつもりはないのだけれど。
 悪意が無い者ほど性質が悪いとは、即ちこのような事をいうのだろう。

 + + +

 翌日、せっかく作ったチョコレートを渡せないまま放課後になってしまい、どうしたものかと落ち着かない恵の姿が教室にあった。
 もともとの人数が少ない為に掃除時間になると限られた人数しか教室にいないのだが、更に今は恵しかいないという絶好の機会に恵まれていた。
(やるなら、今しかないわ)
 廊下を見渡して人影がない事を確認した恵は、そっと夏野の席に近付き鞄の中にチョコレートを忍ばせる。
「恵、掃除終わった」
「ふひゃっ」
 突然後ろから掛けられた声に恵は飛び上がらんばかりに驚き、おかしな悲鳴を上げてしまった。
「どうしたの?」
 恵の幼馴染、田中かおりが教室に入って様子のおかしい恵に声を掛ける。
「な、何でもないわ」
 間一髪、夏野の鞄を元に戻していた恵は何事も無かったように振り替えった。
「誰もいないと思ってボーっとしていたらあんたが声を掛けてきて、だからびっくりしただけ」
「そうだったの。ごめんね、驚かせちゃって」
「まったくよ。それで、何しにきたの?」
 何処か納得していないかおりに対し、畳み掛けるように言葉を繋ぐ。
「何しにって、掃除が終わったなら一緒に帰ろうかなって」
「そう、別にいいって言ってるのに」
「いいのいいの、気にしないで。どうせ帰る方角一緒だし、家だって近いんだから」
(そういうことを言ってるんじゃないのよ)
 遠回しに言っても通じない、そのことに余計腹が立つが、人数が少ないのだから仕方がない。結局はかおりと下校することになる訳だし、
「わかったわよ、じゃあ帰りましょ」
 今日は早く帰るに越した事はない。
 こっそりと鞄に忍ばせただけあって、ここで夏野と鉢合わせるのは少々気まずいのだ。例え夏野が恵に見向きもしないと分っていても。
「え、お掃除終わったの?」
「終わったからボーっとしていたんでしょ」
「ああ、そっか」
 別に嘘は言っていない。
 他の生徒はそれぞれ持ち場に行っているのでいないだけで、自身の持ち場が終われば下校したって文句は言われない。現に教室掃除組みは恵を残してみんな下校したか部活に行ったかだ。
 恵はチョコレートを渡したくて残っていただけで。
(結城君、食べてくれるかな)
 ちらりと夏野の鞄に目を向ける。
(食べてくれるよね)
 だってバレンタインに女子からチョコレートを貰って喜ばない男子はいないのだから。
 とはいえそれは少なからず相手に好意を持っている場合であって、相手に嫌われている、あるいは送り主が誰かも分らない場合はその限りではない。
 そうして自分がいない間に教室で何が起きていたか知る筈も無い夏野は、何も考えずに恵みのチョコレート入りの鞄を持って下校したのであった。

 + + +

「夏野ちょっと寄ってけよ」
 頭上から声が降ってきた。
「保ちゃん」
 夏野が武藤家の前に差し掛かったところで武藤家次男、保に声を掛けられて夏野は足を止める。
「学校は?」
「今日半ドンなんだ、兄貴もすぐに帰ってくるから上がっていけよ」
 返事を聞く前に保は窓から顔を引っ込め、次に玄関から姿を見せる。
 自転車を玄関脇につけている夏野を玄関先から、保つが「早く」と促した。
 ちょっとと思い上着を着ず屋外に出たので寒くて仕方がない。
「徹ちゃん、まだなんだ」
 別に徹がいてもいなくても関係ないと思いながら、先ほどの会話の流れで尋ねてしまう。
「んー、なんか寄る所があるんだってさ」
「へえ」
「気になる?」
「いや、別に」
「そうか、俺は気になるけどな」
 素気ない夏野に対し保はそう言うが、夏野には何が気になるのかわからない。
 普段から仲の良い兄弟だとは感じていたが、お互いの行動をそこまで気にするものなのかと不可解に感じる。
 その夏野を見て、
「夏野ってクールっていうか、あんまイベントとか気にしない方だよな」
「は?」
 保の言いたい事が今一つ理解できない夏野は玄関で首を傾げた。
「ま、その様子じゃあ夏野も収穫無しって事だよな」
「何か良く分からないけどさ……あ、お邪魔します」
 いらっしゃい、と声を掛けてきた保の母に挨拶をし、
「上がっていい」
 二階を指して保に尋ねる。
「ああ、先上がってろよ。何か食いもん取って来るからさ」
「別にいいのに」
「いいからいいから」
 背中を押されて二階に向かった夏野は、下でお菓子を漁っているであろう保の部屋に入り壁際に鞄を置く。
(誰かが……)
 見ている気がする。
 視線を感じて窓から周囲を窺うが人影は見当たらなかった。
「おーい夏野、寒いんだから窓開けんなよ」
「あ、ああ。悪い」
「外がどうかしたのか?」
「いや、何でもない」
 夏野は正体不明の違和感を拭えないまま窓を閉めた。

 + + +
 
「危なかった」
 電柱の影で恵はほっと息を吐き出した。
「まさか気付くはずないわよね」
 夏野に渡したチョコレートの行方が気になり帰宅後すぐに結城家に向かった恵だったが、武藤家の前に夏野の自転車を見つけて足を止めた。
「それにしても結城君ったら、寄り道なんてしちゃって」
 これでは夏野の様子が分らない、と家の下でウロウロしていた時に二階の窓が開いたのだ。
 しかしこうしてみると電柱の影から微かにだが室内の様子が分る。窓際の人物と立っている人影は確認できるようだ。
(そうだわ)
 何やら名案を思いついたらしい恵は駆け足で自宅に取って返した。

 + + +

「そういえば保っちゃんの時は卒業文集とか作った?」
「ああ、やったやった、将来何になりたいとかそういうの書かされたっけ」
「へえ、やっぱりあったんだ」
「何、都会じゃこういうのやらないの」
「さあ、小学校の時は作文とか書いた気がするけど、中学はどうだろうな」
 途中で転向してきたのだから分るはずもないのだが、もしかしたらどこでもやるものなのかもしれない。
「それで、夏野達はどういうの書くんだ」
「えっと、今日プリント貰って」
 色々と項目はあたが詳しく目を通した訳ではなかったので内容までは記憶しておらず、プリントを出そうと夏野は鞄を開いた。
「何だ、コレ」
 ピンクの包みに赤いリボンの箱をつまんで鞄から取り出す。記憶にないソレに夏野が首を傾げていると、
「何だよ、夏野ちゃっかり貰ってんじゃん」
 保のいかにも不服です、と言わんばかりの声が上がった。
「ちゃっかりって」
 何を言われたのかすぐに把握できなかったが、
「ああ、今日は十四日か」
 漸く合点がいき頷いた。
 それで保の今までの行動にも納得がいく。
「それでそれで、一体誰からなんだ?」
「さあ、知らない間に入ってたからな」
「名前とか書いてないのかよ」
「さあ」
「さあってお前、バレンタインのチョコだろ。普通もっとこうさ、はしゃいだりとかしないのかよ」
 何て奴だと保は言うが、差出人の分らないチョコなんて夏野にしてみれば気持ちが悪いだけだ。
「それよりさ」
「うわ、それよりと来たよ」
 信じられないという表情で保は頭を抱えたが、
「うん、それよりさ、もしかして徹ちゃんの用事って」
「そうなんだよ、もしかしたらもしかするだろ、だから気になってさ」
 夏野の問いに抱えていた頭を勢いよく起こし、放しはそちらに移行する。
「それは気になるよな」
 夏野もその話に乗ろうとした時、
「ただいま〜」
 玄関で調度話題の人物の声がした。
 そのまま足音が部屋に向かってきて、部屋の戸が開かれる。
「おかえり」
「おかえり、徹ちゃん」
「ただいま。夏野も来てたのか、お前運がいいな」
 ニヤッと笑う徹に夏野と保は顔を見合わせて首を傾げた。
 誰かに告白されたから遅くなったのかと勘繰っていただけに、二人にとって徹の行動は不可解なものだった。
「ジャジャジャ〜ン」
 そんな二人の前で徹が紙袋を逆さにすると、中からバラバラと何かが出てくる。
「何、コレ」
「チョコレート?」
 夏野が首を傾げる横で保がその内の一つを拾い上げ兄を見上げる。
「お前らの事だからどうせ寂しいバレンタインだったんだろうと思ってさ、値引きしてあるの買い込んで来てやったぞ」
「徹ちゃん、遅かったのってこの為」
「ん、まあな」
 凄いだろ、と胸を張る徹を夏野が見上げる。
「どうしたんだ夏野、俺の優しさに少しは感動したか?」
「徹ちゃん、虚しくない?」
 しみじみとした夏野の言に徹は床に座り込み、がくりと項垂れてしまった。
「お前なあ、俺のせっかくの優しさを……」
「いんだよ、こいつチョコ貰ってんだから」
 忌々しげに呟く保の言葉に徹は勢いよく顔を上げた。
(似たもの兄弟だよな)
 行動パターンの似ている二人に対して人事のように感想を抱く夏野に、
「だってのにこいつときたら、全くの無反応なんだぜ」
「いやいや夏野、男としてその反応は拙いだろ」
 今度は二人が迫ってくる。
「んなこと言ったって、本当に心当たりないしさ」
 本当は一人心当たりがなくもないが、言えば面倒な事になりそうなので黙っておく。
「別に誰からとか分らなくても貰えれば嬉しいもんだろ」
「そうか?そんなに欲しいなら、それ徹ちゃんにあげるよ」
「あのなあ夏野、そういう問題じゃあないだろ」
 苦笑を浮かべる徹の背後から、
「無駄だって徹ちゃん、こいつはそういう冷たい奴なんだからさ」
 もう一人がひょこりと顔を出した。
「あれ、正雄いたんだ」
「あんた、いつの間に来たんだ?」
「いたんだよ、最初からっ。お前って本当に失礼な奴な」
(いや、俺だけじゃないだろ)
 内心そう突っ込む夏野に対し、吠えて掛かろうとする正雄を宥めながら、
「バス停で出会ってさ、たくさん買ったから誘ったんだけど」
 徹は夏野と正雄を見比べて弟に視線をやる。
(余計な事したかな)
 兄のそんな内心に気付いた保は徹の苦笑に苦笑を返し、肩を竦めてみせた。
「だいたいお前はさ、人の気持ちのありがたさってのが分ってないんだよ」
「押し売りされた気持ちまでありがたく思わないといけないって言うなら、そうなのかもな」
 こういう態度が余計正雄を怒らせるのだが、正雄の機嫌をとってやる義理もないと、そう思っている夏野は気にも留めない。
 周りもそんな遣り取りに慣れているのか、徹と保は成り行きに任せて徹の買ってきたチョコの包みを開き始める。
「あ、それ美味そう」
 ムキになる正雄を無視して夏野も二人に加わろうとするものだから、正雄の怒りは心頭に達してしまった。
「夏野は貰ったの食えばいいだろ」
「いや、だから欲しければ上げるって」
 茶化す保に夏野がうんざりして答えると、脇から伸びた手が夏野宛のチョコレートの包みを奪い取る。
「返して欲しければ今の内だぞ」
 正雄は奪ったチョコレートを手にして窓際に立ち夏野にそう宣告するが、当の夏野は、
「いや、だからいらないって。あ、これ美味いや。保っちゃんそっちは」
 既に徹の買ってきたチョコを開いて試食会を始めていた。
「んー、こっちは今一かな」
「お、コレはいけるぞ、夏野と保も食べてみろよ。正雄もさ、コレ美味いぜ」
 それに二人も混ざる物だから、正雄は蔑ろにされたと一層腹を立て、
「じゃあ俺はコレを食べるからな」
 返事を聞かずに持っていた包みを破り、飾り気は無いが可愛らしい箱を開きハート型のチョコレートを取り出した。
「今から止めたって遅いんだからなっ」
 静止する者もいない中、ムキになった正雄はハートのチョコレートに齧りついた。
 瞬間。

「いやあああああああああっっっ〜〜〜」

「は?」
「へ?」
「何?」
「……………?」
 突如窓の外から聞こえた絶叫に、何事かと四人が窓にへばり付き外を見渡す。
 しかし外には誰の姿も見えなかった。
 四人がそれぞれ顔を見合わせ首を傾げるが、すぐに興味を無くして窓を離れチョコレートの山に戻っていった。
 気が削がれたのか今度は正雄もそれに交じる。
 窓の外の電柱の影、そこには黒い双眼鏡が残されていたのだが、それに気付いたものは誰一人としていなかった。
 ただ何を思ったのか帰り際、
「正雄、ありがとな」
 有り得ない事に、夏野が正雄にそう言い残した。


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