尾崎医院での情報交換中、
「コーヒーでも入れるか」
気分転換にと思い尾崎敏夫は席を立った。
「夏野くんも飲むかい」
尋ねておいて答えを聞くつもりはないようで、夏野が答える前にカップを二つ用意する。
結城夏野はその行動を無言で見ていた。
敏夫はコーヒーメーカーからカップにコーヒーを注ぐと、
「砂糖とミルクは?」
今度は答えを待つ気があるようで、振り向いたまま夏野が答えるのを待っていた。
「いや、いい」
目をそらし、「そうか」とカップを運ぶ敏夫の手元を見た。
「ほい」
敏夫はローテーブルにカップを置き、音を立てて先程まで座っていた、ローテーブルを挟んで夏野の向かい側の椅子に座ると、せっかく入れたコーヒーを放っておいて煙草を咥えて火を点ける。
「先生は、勝手だよな」
夏野に恨みがましい目でねめつけられて、敏夫は手付かずのままのカップを見る。
「コーヒーじゃない方がよかったか?」
「そうじゃなくて」
首を傾げる敏夫に溜息が出そうになり、夏野は湯気の立つカップを取り口を付ける。
「ああ」
紫煙を見て、合点が行ったとばかり頷いき、
「すまんすまん、ついな」
苦笑を浮かべ灰皿を取り寄せる。
カップ越しにこちらを見る夏野の目が恨めしいものに見え、まだほとんど吸っていなかった煙草を灰皿に擦り付けた。
「別に、煙草の煙なんて気にならない」
夏野は再びカップの中味に視線を戻した。
そんな事を言われても他に思いつく節は無い。
これまで勝手に動いていた事を言っているのであれば、それについては敏夫にも言い分があった。
(それとも……)
気分転換自体が気に食わないのかと、コーヒーと灰皿に視線を向ける。
この場合心当たりが無いというより有り過ぎて分らないといった状況だ。
「先生は俺達で屍鬼を滅ぼそうと言っておきながら一人で戦おうとしている」
「それは味方なんていないと思っていたからさ」
唯一自体を共有していた幼馴染の室井静信とは、根本的に考え方が違っていた。
「こんなこと他の奴に言って信じると思うか?」
伊藤郁美の二の轍を踏むだけだ。
あの時の屈辱と、今に繋がる痛手を思うと今でも胸糞が悪くなる。
そしてクレオールでの事が決定打だ。
これだけの状況証拠、決定的な証拠もある、それでも誰一人信じない。
否、信じようとはしない。
「今までの事を言っているわけじゃない」
それについては夏野にも、
(人の事は言えない)
という思いがあるので何も言うつもりは無い。
言ったところで意味も無い。
「あんた、一人で何とかしようと思っているだろ」
実際出来るのかもしれない、そう思えてしまうから余計に腹が立つ。
「それは違うよ夏野くん、そういう訳じゃない」
それが出来たらここまで奴等の思い通りの展開になっていなかったし、これほどまで追い詰められてはいなかっただろう。
「一人じゃどうにもならなかったから、こうして皆に協力を仰ぐ方法を――」
「協力?違うだろ」
夏野はほとんど口を付けていない黒い液体から視線を上げる。
「あんたは、利用しようとしているだけだ」
「そうじゃない、そういうことをしたい訳じゃないさ」
静信の苦言を思いだし奥歯を噛締める。
彼はやり方が間違っていると、そういう事を言いたかったのかもしれない。
だがそういうのとも違う気がした。
ならばどうしたいのか、どういうやり方なら納得したのかと問うても答えは無かった。
(俺は……)
ただこの事態を何とかしたい、そう思っていただけだ。
そしてその原因が屍鬼で、
(それを根絶したいと思って何が悪い)
人が病原体の、人を死に追いやるものの根絶を願うのはよしとするのに、それが人の形をしているだけで何故戸惑う必要がどこにあるのか。
現にこうして手を拱いている間に、外場村の人間は次々と被害にあっている。
ただそれを防ごうとしているだけだ。
その為に村の人を利用しているというのなら、そうなのだろう。
(それがどうした)
協力を仰いでも誰も話を聞こうともしなかった。
既に綺麗事を言っている場合ではない。
「俺の事は利用さえしないんだな」
思考に沈んでいた敏夫には夏野が突然に発した台詞を今一つ理解出来ない。
「君は何を言っているんだ?」
何故夏野を利用する必要があるのか分らない。
そして、どうしてこの少年がいきなりこんな事を言い出すのかも。
一方夏野は夏野で思うところがある。
相手が動きを見せない限り動きようが無いのは分るが、それにしても、
(何も言わない)
それが気に入らない。
協力するというなら役割とか、役回りとか、役目とか、そういうのがもう少しあるんじゃないかと思う。
それが全く無いから、
(この人は一人でやろうとしているんじゃないのか)
そんな事を考えてしまう。
一人では何も出来なかった自分とは大違いで、腹が立つ。
だが今は違う。
今なら屍鬼に立ち向かう力がある。
(少なくとも……)
立ち上がり机に置いてあるナイフを手に取った。
それをそのまま頚動脈に押し当て、迷わず引き抜く。
(再び殺されるような事にはならない)
証明するならこれが一番手っ取り早い。
(ああ、こうなるんだ)
口を絞ったホースから水が噴出すように勢いよく血液が飛び散る様子を、夏野は他人事のように見つめている。
「何をしているんだっ」
その行動に大いに慌てたのは敏夫のほうで、
「早く止血を」
手近にある滅菌ガーゼを掴み取り傷口に押し当てようとして、しかしその手を止めた。
「俺には必要ない、分っているはずだ」
傷跡は残っているが出血は止まっている、その傷跡さえ既に塞がろうとしていた。
これで死なないのだから、奴らに対抗するなら普通の人間より有効のはずだ。
今は血が減って力が出ないが、人狼は人の数倍の力を出せるらしいから尚更だ。
「君は馬鹿か」
それなのに呆れたように言われて、
「バカって……」
「後先考えない奴は少なくとも馬鹿だと思うぞ。いくらその体になったからとはいえ、出血が酷ければ死ぬことになる。覚えておくんだな」
「それに」
ため息を吐いて辺りを見渡す。
「この惨状をどうしてくれるんだ」
勢いよく噴出した血痕がそこら辺中に飛び散っていて、
「殺人現場みたいだな」
他人事のように呟くと、後ろから容赦なく叩かれた。
「痛っ」
叩かれた後頭部を暫く抑えていたが、一言抗議してやろう振り返ると、
「ほら」
敏夫が投げた白い物体が放物線を描いて飛んでくるので、それを反射的に受け止める。
「雑巾?」
「掃除するんだよ」
(モップ)
夏野は敏夫の手にあるものと自分の手にあるものを見比べる。
この差は何かと思うが、自分で蒔いた種なので文句はいえない。
「ここは病院だぞ、殺人現場のままほっとけるか」
敏夫は夏野の様子など気にも留めず、なおも掃除用具入れを漁り薬品を取り出した。
「初めに血糊を水拭きで拭取ったら、その後はこれで磨いてくれ」
机の上に無造作に置かれたそれを手に取る。
「これは?」
「血液ってのは普通に拭いただけじゃあ落ちないんだよ」
血の付いた白衣と衣服を気にする様子も無く掃除を始める敏夫を見て、
(まるで殺人現場の後始末だな)
常時であれば非現実的な光景が現実的に感じるのは今が非常時の為か。
夏野も敏夫に倣って床を拭こうと屈み込むと、
「君は他を拭いてくれ」
血痕の散っている家具を指された。
その為のモップと雑巾だ。
(何やってんだろうな)
敏夫ではないが、
(バカみたいだ)
黙々と後処理をしていると虚しくなってくる。
その後、敏夫の手際が意外に良く半時間もかからず血痕は片付いた。
一通り片付くと掃除道具を隅に押しやって、敏夫は煙草に火をつける。
そしてふと思い出したように、
「だいたいな、そう簡単に死ななくても切ったら痛いだろ」
夏野はそれに首を捻る。
初めその台詞が何に掛かっているのか分らなかったが、それが先程の「君は馬鹿か」にかかるのだと思い至り、
「先生こそ、バカなんじゃないか?」
しみじみと呟くと、敏夫は煙草を持った手を止め、
「いや、馬鹿は夏野くんだろ」
ポカンとしている。
「いいや、あんただ」
「君だ」
「あんただよ、だいたいバカっつった方がバカだろ」
「夏野くんは何時からそんなガキっぽい事言うようになったんだ」
「バカって発言自体ガキっぽいだろ」
「そういうのを屁理屈って言うんだぞ」
「そういうこと言ってると余計バカっぽいぜ」
「……だいたいな、俺は馬鹿な行動をした事に対して馬鹿と言ったんだ」
「俺だってあんたがバカな発言したからバカっつったんだよ」
「俺がいつ馬鹿な発言をしたって言うんだ」
「気付いてないところが益々バカだな」
「馬鹿に馬鹿と言われる筋合いは無いっ」
「バカだろうがバカじゃなかろうがバカにバカつっても不都合はないだろ」
「不都合あり過ぎだ、馬鹿に馬鹿っつわれたら余計に馬鹿に聞こえるだろうが」
「バカなんだから仕方ないだろ」
「君はそれしか言えないのか。本当に馬鹿だな語彙が少な過ぎる」
「あんただってバカだ」
「だいたい『バカ』って何だ『バカ』って、本気で馬鹿にしてるだろ」
「あんたこそ『馬鹿』って、言い方容赦ないんだよ」
淡々とした言い合いが続くが、段々語尾が強くなっている。
(大人気ない)
高校生相手に何を張り合っているのかと思う反面、高校生相手に負けて堪るかとも思う。
夏野は夏野で、らしくない事をしていると戸惑いを感じるが、
(男には譲れない事があるんだ)
生前の武藤徹が見たら、
「やっぱ夏野も男の子だな」
と喜びそうな、全く以ってどうでもいい理由で引けなくなっていた。
「容赦なく聞こえるのは馬鹿だという心当たりがあるからだろう」
「あんただってバカにされてるように聞こえるのは、バカにされて痛いと思う部分があるからじゃないのか」
「君は本当に揚げ足取るのが上手い子だな」
「子とか言ってんじゃねえよ、おっさん」
「おっさんね。いいぜ、どうせおっさんだ。三十代舐めんなよ」
「三十代なら三十代らしい行動とれよな、ガキ本気で相手にしてんじゃねえ」
「ガキっつーほどガキじゃないくせに都合いいときだけガキしてんなっ、バーカ」
「その最後の一言がバカっぽいんだよ、ほんとバカなんじゃないのか、このバカ親父」
「夏野君のお父さんになった覚えはありません」
「あんたこそガキっぽいこと言うよな」
「君は可愛げが無さ過ぎるんだよ」
そしてそのまま小康状態に入り睨み合いが暫く続く。
その内にどちらかとも無く溜息を吐き、椅子に腰掛けた。
顎を天井に向けぐったりとしながら夏野が呟く。
「二人してバカみたいだな」
こんな言い合いをしたのはいつぶりかと思う。
「ああ、全くだ」
敏夫に至っては十年どころではなく前のことかもしれない。
(だが……)
おかげで頭がすっきりしていた。
お互い晴れ晴れした顔をしている。
「夏野くん、俺の言い方が悪かったのかもしれないが」
先程と違い敏夫の声は落ち着いている。
「ああいうのは止めてくれ」
夏野はソファーの背もたれから体を起こすと、無言のまま敏夫を見つめた。
真意を探ろうとする夏野の視線を正面から見据え、
「夏野くんがどう動こうが奴らさえ滅ぼせるなら俺は構わないさ。だがな、自身を大事にしない奴に背中を預ける訳にはいかない。気付いたら背中ががら空きなんてごめんだからな」
そして最後に肩を竦めてみせる。
夏野は少しだけ間を置き、
「へぇ」
不適に笑う。
「何だ?」
「先生は俺に背中を預けるつもりなのか?」
「当然だろ、他に誰がいるんだ」
さも当然と言わんばかりに言うが、その様に夏野は呆れてしまう。
この男は屍鬼を狩るのに屍鬼に背中を預けると言う。
大胆というのか、清濁併せ呑むといのか。
(やっぱり……)
この男はバカなんじゃないかと思うが、
(まあいいか)
辿り着く場所が
「だったら……」
それまではせいぜい生きて、
「俺が先生を守ってやるさ」
敏夫が一瞬固まる。
夏野はその面食らった顔に少し優越感を感じたが、残念な事にそれは一瞬で、破顔一笑吹き飛ばされた。
「それは頼もしいな」
先程の夏野の笑みより更に不適な笑みと大仰な身振りに、馬鹿にされたようで腹が立つ。
腹は立つけど悪くない。
尾崎敏夫が実は利己的な男だということを、結城夏野は知っている。
誰よりも状況に支配される事を嫌い、抗おうとしている事も知っている。
それが誰のためなのかはわからないが、少なくとも誰もしようとしない事を一人でしようとしていた唯一の人間だという事も知っている。
そしてこの状況を打破出来得る唯一の人間だという事も。
だから、腹は立つけど悪くは無い。
了