尾崎敏夫が都会の大学病院から外場村の医院に帰ってきたのは、先達て尾崎医院の院長であり彼の父親が癌のため他界したのが原因だった。もともと父親の後を継ぐのが嫌で都会の大学病院に残ったのだが、父の死後ここを放って置く訳にもいかず帰郷を余儀無くされた。
結果として両親の望み通りになったことは癪だが、こうなったからには覚悟を決めた。
とは言え都会の大学病院と田舎の診療所とでは何もかもが違いすぎる。
職員に不満はない、皆良くやってくれている。中にはこんな田舎の医院には勿体無いと思えるような人材もいた。しかし機器も充分とは言えないし、何より患者の意識が全く違う事に俊夫は途惑い、生まれ育った場所だと言うのに馴染みきれずにいた。
この日も待合室に顔を出した敏夫に、患者が気軽に話し掛けて来る。
幼い頃から良く見知った相手というのもあるのだろうが、大学病院ではそれこそ長期に渡り入院している患者以外とこういう親しい遣り取りなんてすることは稀だった。
幼い頃からの顔馴染みというのが更に悪い。敏夫自身忘れているような子供の頃の失態を持ち出されては、話の肴にされてしまう事もしばしばだ。
こんな所を彼の母親に知られた日には、何を言われるか分かったものではない。
彼女は尾崎に過剰とも言える誇りを持っており、それを少しでも傷つけられたり軽んじられたりされるのを何より嫌うのだ。
矜持だけが高い彼女を、敏夫は内心疎ましく思っていた。
それでもそんな環境に少しずつ慣れ始めた、はずだった。
この会話を耳にするまでは、少なくともそう思っていた。
「あら、若先生。どうですか、もう慣れました」
「はあ、まあ」
この会話何度目だろうか、とうんざりする。
尋ねてくるのは違う人なので相手にとっては初めての話題なのだろうが、敏夫にとっては嫌気がさすほどの回数だ。
「ふきさん、若先生は此処で育ったんだよ、そんな事聞いちゃ失礼だよ」
「あらあら、そうでしたね。ごめんなさい、若先生」
「いやいや、勝手が違うんで慣れるまでは大変でしたよ。まあ父の代からの職員が良くしてくれてるので、何とかやってますけどね」
本当に慣れないのは、この遣り取りかもしれない。
早く此処から離れて煙草が吸いたい、そんな事を考えながら上の空で話を聞き流していると、おかしな会話が聞えてきた。
「そういえば三重子さん、ここ一週間見ないわねえ」
「そういえばそうね。あの人三日と空けず病院に来てるのにね」
医院に来る高齢者の患者は、腰や足に電気を当てに来たり、薬を貰いに来たり、検診に来たりといった人が大部分を占める。
よって重篤な患者はおらず、院内は町の集会所よろしく、世間話にも花が咲く。
「どこか具合でも悪いのかしら」
「そうかもしれないわね」
「私午後からあっちの方に用事があるから、様子を見てこようかしら」
「そうだね、それがいいかもしれない」
結局その後お年寄り達の世間話は、いつの間にか話題を移していた。
+ + +
「つう事があったんだよ」
夜、敏夫は旦那寺住職宅の縁側に腰を降ろし、煙草をふかしていた。
その隣には僧服に身を包んだ幼馴染が端座している。
室井静信、旦那寺の副住職であり敏夫の幼馴染である。
敏夫の話を聞き、静信は苦笑を浮かべた。
こうして敏夫と話をする事自体は珍しくも何とも無いが、夜態々愚痴を言いに来るのは稀な事だ。
「お疲れ様」
しかし静信はそれ以外に言葉が見付からなかった。
小説の中では気の聞いた台詞も思いつくのだろうが、実際だとそう上手くいかない。
敏夫もそんな静信に気を留めることも無く、煙草を吸う。
一本目を吸い終ったかと思えば、間を空けることも無く二本目に火を点ける。
そしてゆっくりと肺に煙を循環させた後、夜空に紫煙を吐き出した。
一呼吸置いた後、敏雄は独白の如く呟く。
「普通病院ってのは、調子が悪いときに来るもんじゃないのか」
静信は何とも言う事が出来ず苦笑し、ただ一言敏夫に告げた。
「……頑張れ」
敏夫は返事を返す事無く、だた煙草を燻らせていた。