尾崎敏夫が都会の大学病院から外場村の医院に戻って来てから暫くになる。
当初馴染めないと思っていたが、最近ではだいぶ馴染めてきたと思い始めていた。
そんな時にこそ事件は起きる。
木曜の午後からは往診に回る。どこの病院でもすることだが、尾崎医院も例外では無い。
生まれ育った村だけあり、道に迷う心配は無い。
前の病院では初めて行く所だと場所を確認しなくてはいけないのだが、その手間が省けるぶん楽だと感じる。
こういう所、ここは楽だな。
「あ、先生、さっきの道、右です」
「え」
そう思ったのも束の間、道を一つ間違えてしまい、同乗している看護師の国広律子に教えられてしまう。
「……悪いな、律っちゃん」
「いいえ」
「でも出来れば、過ぎる前に教えて欲しかった」
「すみません」
「ははは、いいよ。ボーっとしていた俺が悪い。それにここは切り返すのも楽だからな」
「対向車来ませんしね」
お互いの会話に苦笑が混じる。
道は都会のものほど広くないが、Uターンが禁止されてもいなければ対向車も少ない田舎の道路は、少々間違えたところで簡単に修正が利く。
良いことなのだが、失笑を禁じえない。つい苦笑が浮かんでしまう。
ここはそれほどまでに田舎なのだと。
+ + + + +
取り敢えずの往診を終わり、世間話に会話が移行する。
取り敢えずというのはその言葉のとおり、往診といっても本当に形だけのものを取り敢えず行うのだ。
重篤な疾患とはいえない患者が大半を占める。定期診療が必要だが、足が無く病院まで来ることの出来ない患者、もしくは寝たきりの患者の家を回るのが常だ。
高齢者にありがちな炎症等の急変を見落とさない限り、神経を使うこともほとんど無い。
往診先での世間話には当初から違和感が無かったが、慣れて来た今では初めの頃より話も弾む。
時折父親と比較される手の話しが会話に上るのが腹立たしいが、それさえ無ければ今では気安くて好ましいとさえ感じている。
そんな時、ふとこの家には有り得ない物を目にしてしまい、敏夫の動きが止まる。
「どうしたんですか、先生」
律子が訝り、敏夫の視線を追う。その先にあるものを見て、律子は「ああ」と得心がいったと頷いた。
「大川さん、前から言ってるじゃあないですか。他の人の薬を勝手に貰っちゃ駄目ですよって。病院の薬はね、先生がその人にあった物をちゃんと用意してくれているんですから」
「それは分かっているんですけどね、でもこれ胃薬ですし。それに、病院の胃薬はよく効くんですよ」
律子が話すように、敏夫が目に留めたのは胃薬の袋だった。
ただしそれは、この患者には処方していない種類の薬だ。
この手の薬は確かによく効くが、常用する手の物ではない。その為特に胃に病変がある時にしか出さないのだが、それが何故かここにある。
その理由はいたって簡単だ。
誰かに処方していたが、その誰かが途中で良くなり飲まなくなったのを貰ったのだろう。
「大川さん、大川さんにもちゃんと胃薬出してるだろう」
大川に出しているのはこれより少し軽い、漢方の類の胃薬だ。
これなら一日三回、常に服用しても差し障りが無い。好ましくは無いが、この手のものなら誰かに渡しても支障はない。
とはいえ、くどいようだが好ましくはない。
「ですけどね、先生。前に出して貰ったこの薬の方が良く効くんですよ」
それだけきつい薬なのだから、当然だ。
「……………、わかったよ。今出している薬で利かないときはちゃんと言ってくれ。そしたらそれに合った薬を出すから」
「はぁ」
懇々と諭すように言うのだが、何処か納得していない様子に溜息が出そうになる。
「わかったね」
もう一度念を押すと、「わかりました」と頷きはしたが、たぶん納得はしていないのだろう。
どうせ同じ薬なら、何処で貰おうと同じではないか。と、それくらいにしか思っていないのだろう。
+ + + + +
「つうことがあったんだよ」
夜、旦那寺住職宅縁側で、敏夫は煙草を吹かしていた。
これで既に三本目だ。
愚痴の相手である室井静信が、
「あ、ははは……」
いつもなら「大変だね」なり「そうなんだ」なり、それなりの対応が帰ってくるのに、今日はどうしたことか歯切れが悪い。
「静信、お前」
「どうしたんだ、敏夫。怖い顔して」
剣呑な視線を受け、静信は視線を泳がせた。平生を装っているつもりでも、かすかに口の端が引きつってしまう。
「確か、お前んとこの親父さんにも胃薬出てたよな。あと湿布だったか?」
「ああ、うん」
合った目を咄嗟に逸らしてしまった。
それに気付かないほど敏夫は鈍感ではないし、そうでなくても既にばれている。
「静信、お前もか」
静かに言われると怒鳴られるより恐ろしく感じる事があるが、今がまさにその時である。
「いや、だって、胃薬だし。それに湿布だってたまたま先日、光男さんが足を痛めてしまって……」
睨まれて言葉が続かない。
別にそこまで怒ることなのかと思わなくもないが、今の敏夫にそれを言えば火に油を注ぐような惨劇に成りかねない。
「あのな、静信。たかが胃薬だと思うかも知れないが、胃薬にも種類があるし、同じものでも用法を間違えれば病態を悪化させてしまうこともあるんだ」
「そんな、大袈裟な」
「……まあ、な」
この度の事だけを言うのであれば、大袈裟なのだろう。
だが、これが違う物になれば話しは違ってくる。
またたかが胃薬といえど、されど胃薬。
胃薬には主な物で二種類がある。胃粘膜が弱りそれを保護する為に飲むものと、胃酸の量が減りそれを補う為に飲むもの。この二つでは全く効果が違う。
胃粘膜が痛んでいる上に胃酸の量が増えたのでは『弱り目に祟り目』毒を呷るのに等しい。
また飲み過ぎると危険な物もある。胃薬では余り聞かないが、風邪薬や睡眠導入剤は有名な話だ。
言っても、しょうがないんだろうな。
そう結論付け、敏夫は説明しようとした言葉を飲み込んだ。
大学病院に戻りたい……。
不意にそんなことが頭を過ぎるが、外場に帰ってきた時点でそれが叶わない事はわかっていた。
もしそれが叶う時が来るとすれば、それは村が無くなる時だろう。
敏夫は小さくなった煙草を携帯灰皿に押し入れ、次の煙草に火を点けた。
「敏夫、ちょっと吸いすぎじゃないか」
「あ?」
敏夫は煙草を咥えたまま睨みを利かす。
先程のやり取りの為、静信はそれ以上強く出ることが出来なかった。
敏夫は後方に手を付き仰け反るように上を向くと、静信の顔があるのも気にせずに紫煙を吐き出す。
「……敏夫」
今度は顔面に『副流煙攻撃』を受けた静信が敏夫を睨めつける。敏夫はそれを受け、不敵な笑みを浮かべた。
完全に態とだ。
静信は抗議を口にしようと思ったがそれを留め、溜息に変える。
敏夫はそれを横目に見て片笑みを浮かべると、縁側にゴロリと背中をつけ、残暑は残るものの秋の近づく夜空に紫煙を燻らせた。