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尾崎敏夫の厄日
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夏、一人の少女から発生したそれは、今や村の所々に見られるようになっていた。
 そんなある日、結城夏野は協力者である尾崎医院の院長である尾崎敏夫の下を訪れた。
 珍しく『本日休診』の札が掛けられており、仕方なく母屋に回り居間を覗き込むと、ソファーに倒れこむように腰掛けた敏夫を見つける事が出来た。
「若先生……、あんたまで何て格好に」
「そういう夏野くんこそ、いい格好じゃないか」
 愕然とする夏野に敏夫はニヒルに笑って見せるが、溜息と同時にすぐさま疲れ果てた表情へと変わっていった。
 その顔には疲労困憊の色濃く、目の下には隈がはっきりと浮き上がり、
「もうどーでもいい」
 とその顔が如実に物語っている。
 咥えている煙草は既に燃え尽き、フィルターのみを咥えている状態だ。
「先生、いったい何があったんだ」
 向かい側のソファーに腰を下ろす夏野に合わせ、敏夫も座りなおし新たに煙草を取り出した。
 紫煙を循環させるに従い漸く意識が覚醒していくが、それに伴い自身の惨めさに打ちのめされていく。
 それはまさに、苦渋の選択を迫られた出来事だった。

     ×  ×  ×

 その日の朝自室で敏夫が目を覚ますと、早朝にも関わらず窓の外に人影があった。
(静信か?)
 過日意見の食い違いから喧嘩をしてしまったが、彼以外に窓から敏夫を訪ねてくる者など心当たりもなく、迂闊にも窓を開けてしまった。
 開け放たれた窓の下にまるで犬か猫の耳を思わせる緑髪を確認した、瞬間窓を閉めるが既に遅く、
「や、尾崎先生。おはようございます」
 有無を言わさぬ早業で桐敷家の使用人、辰巳の足が窓枠に掛かる。
「早朝からまことに申し訳ございません」
「そう思うなら来んな、早々に立ち去れ」
 窓辺で激しく鎬会うが、人間の数倍の力を有するという人狼に人間である敏夫が敵うはずも無く、虚しく後退を余儀なくされた。
「よっこらせっと」
 軽々窓を飛び越えながら敏夫の前に降り立った辰巳は、
「あ、これは主人からの贈り物で――」
「いらん、持って帰れ」
「そんな事をしたら俺がしかられてしまいます」
「大人しくしかられろ、そして村から出て行け」
「そんな無理難題ばかり仰らないで下さいよ。それにですね先生」
 一歩歩み寄られ、一歩後退する。
「俺も先生がこれを着た姿を是非とも見てみたい」
 再び歩み寄られ、その分だけ後退する。
「それにうまくいけば、まことに不本意ではありますが、僕みたいに変種になる可能性だってある訳ですし」
「こ・と・わ・る!」
「そんなことを言わずに、恥ずかしいのは初めだけです。慣れてしまえば癖になるかもしれませんよ」
「なって堪るか」
「そんな事を言っても、もう後がありません」
 敏夫はいつの間にか壁際に追いやられてしまい、辰巳の腕が目の前に迫っていた。
 正確には、辰巳の持つ『たっぷりドレープの黒いメイド服、純白のフリルもたっぷりエプロンドレス付き』と白い『ヘッドドレス』がだ。
 しかも何故か女物であるはずのそれらは、敏夫が着ても可笑しくない(しいて言えば敏夫の為に誂えたほどの)寸法なのである。
 仕方なく敏夫は両手を上げて降参のポーズを取った。
「着てくれるんですね」
 この瞬間ほんの僅かに出来た隙を突いて敏夫は辰巳の魔の手から逃れ、
「断るっ」
 断言はするものの、頑として出て行かない闖入者を前に手を拱くしかなかった。
「そんな力一杯否定したところで、先生はこれを着る運命なんです」
「んな運命があるかっ」
 断固拒否し続ける敏夫に対して辰巳は、
「仕方ありません」
 溜息を吐いた。
(よしやっと帰るか)
 敏夫が安堵した直後、
「先生が着ないなら、大川さんにでも着て貰いましょうか」
 敏夫の片頬が引き攣った。
「ちょっと待て、他にも選択肢があるだろ。何でそんな極端な方向へ持っていこうとする」
 岩倉具視ばりの髭を蓄えた巨漢のメイド服姿など、何の嫌がらせかと思ってしまう。
 夢見が悪くなるだけだ。
「ダメージが大きそうですから」
 あっさり「嫌がらせ」だと宣言した。
 現に想像するだけでダメージを食らう。
 いったいあの頭の何処にヘッドドレスを着けるんだとか、そういった別の方向に思考を向けないと病んでしまいそうだ。
(……すまない、大川さん)
 それでも、
「俺は着ない。最後の一人になっても絶対着ないからな」
「そうですか、それは残念です」
 心なしか垂れる耳状の髪の毛が可愛く見えるのは、先程の大川のメイドビジョンの影響だろう。
 大川富雄恐るべし、である。
(とにかく落ち着こう)
 落ち着け、俺。
 若干自己暗示もかけつつ机の上を、続いて引き出しを開けるが、いくら探しても目的のものは見当たらない。
(枕元か?)
 枕付近から布団の周りを確認するがここにも無い。
 ごそごそと自室で家捜しをしている敏夫を悠然と見ていた辰巳だったが、
「お探しのものはこちらですか?」
 気が済むまでその姿を堪能した後、マジシャンよろしく何処からとも無く敏夫の探し物を取り出した。
「何でお前が持っているんだ」
「その内先生に必要かと思いまして」
「それは気が聞くじゃないか、だったらとっとと返せよ」
「早合点はいけませんよ、先生がその内欲しがると思って……」
「その後は何だ、勿体ぶってねえでさっさと言え」
「先に人質として回収しておいたんです」
 沈黙が広がる。
 近くでキジバトの鳴く声がして朝の到来を告げた。
 そろそろ使着達はメイド服に着替えてご出勤の時間だ。
 はっきり意って気持ちが悪い。
 女性のメイド服ならまだしも、何故男までメイド服なのかと使着どもの正気を疑ったくらいだ。
 今でも十分疑ってはいるが、
(原因はあのメイド服だ)
 使着となったもの達のメイド服を無理やり着替えさせると一時正常に戻ることからそう推測される。
 だがメイド服を日の出ている間中脱いでいると次第に発狂していき、ついにはぐったりとして動かなくなる。
だからメイド服を着させておくしかないのだが、どういうことかメイド服を着ると着させた者を主として逆らえなくなるようだ。
 解決策は未だ無く、なんとも恐ろしいシステムを作ってくれたと敏夫は頭を抱えていた。
 メイド服というだけでも御免なのに、そんなものいっそ着るわけには行かない。
「ふっ、煙草がそれだけだと思うなよ」
 彼ほどのヘビースモーカーになれば常に一カートンの買い置きは常識だ。
 だが常識ゆえに敵も熟知しており、
「勿論思っていません」
 三カートンもの煙草を取り出した。
「台所の戸棚の中と事務室ので全部なら、ここに全てそろう事になる」
 敏夫は歯噛みしたい気分になった。
 かくなる上はと財布を掴み玄関から飛び出した。
 向かうは煙草屋。
 この時間でも融通を利かしてくれるし、駄目でも自販機があるからどうやってでも手に入れることは可能だ。
 大股でがつがつ歩く敏夫の後を、メイド服を小脇に抱えた辰巳が鼻歌交じりに着いて行く。
「朝早く悪いな、煙草を切らして……」
 ガラス戸を叩き中を覗き込んで、思わず数歩後退った。
(こんな所にまで使着の奴らが)
 窓枠のカウンターから顔を覗かせたのは昔からよく知る『タバコ屋のおばちゃん』ではあるが、そのおばちゃんまでもがメイド服だった。
「ああ若先生、ごめんなさいね。正装(メイド服)以外には売っちゃ駄目だって言われててね」
「おばちゃん誰がそんな事を言ったんだい?誰に売るかはおばちゃんが決める事だろ、個人業者が誰かに命令される事は無いんだ」
「でも、そう決めちゃったからね」
 こうなると何を言っても無駄なのは経験済みだった。
「わかった、悪かったね」
「いいえ、今度はちゃんと正装してから買いに来て下さいね、若先生」
 その予定は勿論無い。
 そのままタバコ屋の脇にある自販機に目を移した。
『メイドIDをかざして下さい』
 見た事も無い記述に目を丸くする。
「何だよこれは。この年代にはT○spoさえないんだぞ、ID制度なんざこんな片田舎にあって堪るか」
 思い切り自販機を蹴り飛ばしたい衝動に駆られたが、そこは何とか耐えることが出来た。
 さすがによそ様の物を壊すわけには行かない。
 そんな事をすれば今やメイド服が制服の巡査に取り押さえられ、問答無用でメイド服になりかねない。
 しっかり数分悩みに悩んだ挙句、
「わかった、メイド服を着れば煙草を返すんだな」
「ええ、すぐにでもお返ししますよ」
「絶対だな、二言は無いな」
「はい」
「もう一度確認するぞ。メイド服(・・・・)を着ればいいんだな」
「ええ、メイド服さえ着ていただければ」
「わかった」
「そうですか」
 ではこれを、とメイド服を差し出す辰巳に左手を突き出し、
「メイド服は着てやろう、だがソレを着るとは言ってない」
「えっと、それは」
「煙草用意して俺の部屋で待ってろっ」
 こうなれば自棄だ、
(あそこなら絶対ある)
 そう確信して、敏夫は下りて来た道を駆け上がっていった。

     ×  ×  ×

 旦那寺では朝の勤行が終り、室井静信は小用を思い出し自室に戻る途中だった。
「静信、頼みがある」
 意見の食い違いがあるにせよ、幼馴染が切羽詰った顔をして訪れたのを追い返すほど静信は無慈悲ではなかった。
「俊夫、どうしたんだ。前も言ったけど僕に彼らの着衣を剥ぐようなまねは――」
「その逆だ」
「どういうことだ?」
 敏夫の真剣な声に静信も声を硬くする。
「お前、実は持ってるだろ?」
「……何を?」
「しらばっくれんな、お前に昔からそういう趣味があるのは知っていたんだ。ただ個人の趣味にケチを付けようとは思わなかっただけで」
「何が言いたいんだい、敏夫」
「頼む、何も聞かずに貸してくれ。勿論ちゃんとクリーニングに出して返すから」
 背に腹は変えられない。
 断腸の思いで手を合わせる敏夫に、静信は漸く事を理解したのか、
「そういうことなら大歓迎だ、前々から敏夫に似合うと思っていた奴があるからすぐに持ってくる」
 まるでスキップでもするかのように軽やかに自室へ消えて行った。
 その様子を目の当たりにした敏夫は、
(早まったか?)
 早くも後悔し始めた。

     ×  ×  ×

作画:如月雪那様
尾崎メイド
「これで、文句ねえだろうっ」
 何故かサイズぴったりなメイド服は、すそのドレープが見事で、エプロンドレスの後ろリボンが異様に大きい。
 ヘッドドレスまでぴったりだ。
「俺の好みとは少し違うのですが、まあいいとしましょうか」
 言うや否や、カシャリとインスタントカメラのシャッターを切る。
「宝物にしますね」
 ニヤリと笑って早々にカメラを納めた。
「何でもいいから、とっとと煙草返せよ」
「ああ、そうでした」
 はいどうぞ、煙草を差し出され敏夫はそれを奪い返し、すぐさま吸いかけの箱から煙草を取り出して口に咥えようとするが、
「おい」
 その手を辰巳に掴まれ、敏夫は屍鬼の形相で辰巳を睨みつけた。
「そんなに口が寂しかったんですか、それなら言ってくれれば」
「どうしたって?」
 メイド服のまま片手を取られ椅子に追い詰められている姿は実に情けないが、今の敏夫にとってそんな事はどうでもいい。
「おい辰巳、お前はニコ中って言葉を知ってるか?」
 空いた手で掴むのに調度いい髪のとんがりを掴む。
「ちょっと先生、耳はやめて下さいよ」
「これは耳じゃないだろ」
「や、まあ、一見耳とは違いますが、でもまあ耳みたいなもので」
「いいからとっとと離れ……………ぎゃああぁぁあぁぁああ
 叫んだのはつかまれた辰巳ではなく、掴んだ敏夫だ。
「だから、止めて下さいって言ったんですよ」
 結構痛いんですよ、とか言っている辰巳は至って平気そうで、
「そんなに気持ち悪がらないで下さい、傷つくじゃないですか」
 辰巳を跳ね飛ばし壁際まで後退した敏夫を心外そうに見つめていた。

     ×  ×  ×

「で、そんなに疲れてるわけか」
 いったい何故そんな選択をしたのか、煙草の味を知らない少年にとっては不思議でならない。
 夏野に呆れた顔で見られるが、それは敏夫自身同じ気持ちだった。
 むしろ哀れまれたら立ち直れない。
「一つ気になるのが……」
 実際は気になるところが多々ある。
 静信のプライバシーを守る為にメイド服の出所を省いた為、夏野にしてみればメイド服の出所だって気になるところだが、そこはあえて聞かないでおく。
 というか寧ろ、
(聞きたくない)
 が本当のところだ。
「辰巳の耳って何なんだ?」
「しるか、あんな気持ち悪いもん」
 髪だと思って引っ張ったら酷い目にあった。
 まさかあんな、
「ミミガーみたいな感触」
 だとは思っていなかったので意表をつかれたと言うのもあったが、人としてあれはやばいと思う。
 あれは気味が悪い。
「食えば?」
「食いたいか?」
「いや、いい」 「俺もだ」
 本気でどうでもいい会話だった。
 しかしそれだけでも気分が晴れるなら、しないよりましな気がする。
「つーかさ先生」
「あ?」
「何時までその格好でいるつもりなんだ?」
 夏野の視線が痛い。
「君こそ、別にその格好じゃなくても平気なはずだろ」
 確か夏野は辰巳と同じタイプの使着だった、そう敏夫は記憶している。
「……こっちにも事情があるんだよ」
 親父が全部洗ったとか、これしか残ってなかったとか、これ見よがしにこれだけ残してあったとか……。
 とにかく夏野にも色々と事情があった。
「あんたの方こそ、いつでも着替えれるんだから着替えた方がいんじゃないのか」
 敏夫としても早く着替えてしまいたいところだが、
「面倒だ」
 本心面倒臭そうに言うものだから、夏野からは溜息しか出ない。
「癖になったらどうするんだ」
「なるかよ」
 なったら嫌だ。
 それは共通の思いだが、
「だったらさ」
「……ああ」
 とは言うものの、どうにも体が動かない。
 心身ともに疲弊しきって指一本動かすのも億劫な状態で、夏野が来なければもう少し眠っていただろう。
 孝江が見たら半狂乱になったかもしれないが、
(そんなこと……)
 知った事かと思ってしまう。
 怠いし眠いし、辰巳が来ると本当にろくな事にならない。
 意識が朦朧としてくる中、人の気配を間近に感じて薄目を開く。
「夏野くん、何してるのかな」
 目前にある夏野の顔を睥睨するが、夏野は歯牙にもかけず、
「面倒なら着替えさせてやろうと思って」
 サラリと言ってのける。
 冗談のようにも聞こえるが、
(この子本気でやりそうだ)
という危機感から、敏夫は大人しく両手を上げた。
「了解。分った、分りました。着替えます」
 怠い体を椅子から起こし、自宅の気軽さか適当な服を取り出すとその場で大雑把に着替え始めた。
 別に男同士だしと、三十路男は思春期の少年が持つ多感な感情なんてとっくの昔に捨て去っている。
(少しは気を使え)
 とか夏野は思うが言葉には出来ず、徐に窓辺に移り外を監視しながら、
「よく持ってたな」
 結局聞かなくてもいい事を聞いてしまう。
「知り合いが持ってたんだよ」
 視線は向けないが、敏夫の声だけで表情が分ってしまう。
 苦虫を噛み潰したような顔になっているはずで、
「まさかそれ着て歩いたのか」
 驚いて振り返ると、まさにそんな顔をしていた。
「まさか」
「まあ、そうだよな」
 メイド服で村中を闊歩する尾崎、どんな事情があっても見たくない光景だ。
 夏野は安心して再び外を眺める。
(トランクス派か)
 とか完全に趣旨のずれた事が不意に頭を過ぎるが、それより、
「じゃああんた、辰巳の前で着替えたのかっ」
 再び室内を振り返る。
「はぁっ?」
 Tシャツから頭を出しながら敏夫は間抜けな声を上げた。
「いくらなんでも敵の前で着替えるなんて、無防備すぎるだろ」
 さすがにそこまでの度胸は無い。
 着替え終り煙草に火をつけ、漸く落ち着いた様子の敏夫の斜向かいで、
「いくらなんでも、それはそうだよな」
 とか何とかぶつぶつ言っている夏野がいるが、敏夫は気に留めない。
 ただ、
「夏野くん、今回のことで俺は痛感した」
 意思の強い瞳で、拳を固めて宣言する。
「俺は絶対奴等を許さない。この村からメイド服を廃絶してみせる」
 例え幼馴染と袂を分かつ結果が来ようとも。
「俺だって、俺達をこんなふうにした奴等を許す気はない」
 例えそれが例え親友を断罪する事になろうとも。
 その意思だけは揺らぐ事は無いだろう。
 二人の男は改めて、その決意を固めたのだった。

おわり

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