初夏の空は真白な真綿のような雲をぽくぽくと浮かべていたが、しかしその遥か上に広がる空はどこまでも青い。大地では昨年の秋に蒔いた小麦が収穫期を向かえ金色に輝いている。 振り返れば白い壁に赤い屋根の小さな家々と、東の森との境目に建つ教会のある小さな村、ここからでは見えないが西の森へ続く方角には立派な石造りの領主の館があるはずだ。 東西を小さい森に挟まれた村は、南北に広大な麦畑を持ち村の生活を支えていた。 この小さな村がここまで広大で肥沃な土地に恵まれたのは、南の森の魔女のおかげだと村では昔しから言われ続けてきた。 まだ南の森に魔女がいなかった大昔し、この小さな村は幾度となく災厄にみまわれたという。このままでは土地は荒れ畑が作れなくなると困り果てた村人の前に一人の魔女が現れこう言った。 もしも南の森を私にくれるなら、ここに封印を張り、南から来る厄災から村を守ってやろう。その代わりこれ以降南の森に立ち入ることは許さない、と。 この申し出に領主は初め難色を示した。南の森は東西の森に比べ大きく、川と湖があり豊かな植物と狩場に恵まれ、村の冬を支える役目を担っていたからだ。 しかしこのまま厄災が続けば村自体が無くなってしまう。そうなっては元も子もないと領主は女魔の申し出を受け入れた。 すると厄災は南の森にその侵入を阻まれ、それ以降村が厄災にみまわれることはなかった。他の村が厄災に呑み込まれ消滅しても、この小さな村だけは残った。 こうして厄災から逃れた村は、小さいながらも豊かな実りを享受し続けて来た。 そう大人たちは子供に教え、森には絶対に入ってはいけないと言われて村の子共たちは育つ。とはいえ今まで誰一人森に入った者がいない、という訳ではない。ただ森に入った者はその全員が呆けたような顔をして「森に入ったはずなのに、いつの間にか村の方へ歩いていた」と言うのだ。 そのことが更に村人から南の森を遠ざける理由となっていた。 その南の森と村を繋ぐ農道を、十二歳の少年アシルは森へ向かい歩いている。 この道を行くのはニ度目だった。 一度目は昨年の今日、ただ少し今年よりも暑さが厳しかった。 アシルには七歳年の離れた妹がいた。その妹マールが病気になり、村で唯一医療の知識のある教会の神父がこのまま熟が下がらなければ命が無いと、両親に告げているのをアシルも聞いていた。矢も立てもいらなれるなったアシルは、草刈りや家蓄の世話で少しずつ貯めていたお小遣いを持って南の森へと向かったのだった。 南の森に入ってはいてない事は知っているし、魔女だって怖い。怖いけどアシルにはこれしか思い付かなかった。 マールが死ぬかもしれないと聞いたその日の昼過ぎに、アシルは家を飛び出して、小麦に挟まれた農道を必死に駆け、息を切らせて南の森の前までやってきた。十一歳のアシルには森は暗く大きく見え、ー歩でも入ると二度と出て来れないのではないかと錯覚してしまう。それでも勇気を振り絞り森へ一歩足を踏み出した時、 「お持ちなさい」 女性の声に呼び止められた。 恐る恐る振り返れば、白髪をきっちりお団子に結い、黒い詰め襟のワンピースドレスを着た老婆が立っていた。老婆と言っても腰は曲がっておらず、シワも少なく、目だって少しも濁っていない。まるで領主の館にいる貴婦人のような女性だった。 「森は魔女のもの、入ってはいけないと教わりませんでしたか?」 領主の館の人のように厳しく問いただされるのかと身を縮めたアシルだったが、女性の柔らかな声に少し緊張を解いた。 「ごめんなさい、でも、妹が病気で、熱が高くて……、だからどうしてもここを通りたいんです」 必死で頭を下げるアシルを見る優しい瞳に、ほんの僅かに好奇心が宿る。 「ここを通って、どうするのですか?」 「街に、港のある大きな街に行きたいんです」 老婆の目に更なる好奇心が宿り瞳の黒さが増した。しかし何も言わない老婆にアシルは、どうして良いか分からず言葉を続けた。 「オレ、地図で見たから知ってるんです。この森の向こうには港町があるんでしょ?村にたまに来る商人の人達は、東の山をぐるっと回って十日もかけて来るって言ってるけど、森を抜けることが出来たら半日で行って帰って来れるはずなんだ」 「その商人達が言っていたのですか?」 問われてアシルは首を振る。 「オレが、そう思ったんです」 誰に言われた訳でもない、ただ以前商人の一人に古くなったからと貰った地図を見てそう思ったのだ。それを告げる声は、自信無く段々と小さくなって行く。 今になって、もしも考えが間違っていたらどうしょうと、恐くなり悲しくなる。 俯くアシルに老婆は、「そう」と一言告げると、アシルの目線に合わせるように腰を下げた。 「もし街へ行けたとして、貴方はどうするつもりなの?大きな街には医者もたくさんいるけど、値段も高いのよ」 「それは、分かってます」 アシルは府いて黙り込んだ。 それが出来ればどんなにいいだろう。大きな街には熱病に効く薬もあるのだろう。しかしアシルにはその金が無い、両親にもきっと無い。あればすぐにでも買い求めに行くだろうから。 「だからオレは、果物を買いに行こうと思って。妹は、マールは商人が売りに来る干し果物が好きで」 思い出したら涙が出そうになったので、アシルは無理に話しを続けた。 「あいつ、買って貰らうとすぐ食べちゃって、オレのを欲しそうに見てるんです。でもオレのって分かってるから欲しいって言わない。それが意地らしくって、だからオレのをあげると」 脳裏に差し出された小さな手が過ぎる。 「これ、半分って、オレにくれるんです。大好きなのに、オレのが無くなったら可哀相だって、オレがあげたのに、オレにくれるんです」 小さくて優しい妹が、アシルの自慢の宝物だった。 高熱のために何も食べようとしないマールが、熱にうなされながら時折何かを食べる仕草を見せる。それがあの干し果物を食べている姿と重なって、じっとしていられなくなった。 もう助からないと言うのであれば、お腹いっぱいは無理でも一口でいい、食べさせてあげたかった。 暫くの沈黙の後、老婆は一言呟いた。 「そう、貴方は優しいのね」 「優しいのはオレじゃなくて、妹です。オレはそんな妹だから、何かしてあげたいんです 」 そう思える事が優しいという事なのよ、老婆はそう教えようとして、止めた。 その代わりにアシルに尋ねる。 「熱病というのは、一月くらい前から流行り始めたものかしら?」 アシルは首を傾げた。村では今の所流行っているというほどじゃないし、村の外の事はよく分からない。 そうね、では質問を変えます」 老婆の視線を受けアシルは真剣な目で頷いた。 「村では何人くらいが同じ病に罹かりましたか?」 アシルは首を捻りながら指を折り、 「五人くらいかな?」 でも皆マールほど酷くはならなかった。 「マールと一諸にダリア叔母さんの所にお見舞いにも行ったけど、叔母さんの熱は3日くらいで下がったって」 その他の人も同じだった、唯一ジュールという老人を除けば皆一様に5日前後で熱は下がっている。アシルの話を聞きながら、老婆はそうでしょうねと呟いた。 何が『そう』なのかアシルには分からなかったが、老婆が神父も知らないような事を知っているのは分かった。だから老婆がその身なりからしては小さくない荷物の中から『何か』を探している間、黙ってそれを見ていた。 「ああ、あったあった」 荷物から顔を上げた老婆は、アシルの手に少し余る程度の大きさのガラス瓶を持っていた。ガラス瓶の中には淡い桃色をした液体が八分目まで入っている。 それが入っていたはずの結して小さくない荷袋はいつの間にか老婆の腰に小さくぶら下がっていて、アシルはこの時初めて老婆が魔女だと気付いた。 南の森の魔女、それは子供心に恐しいものだと思っていた。だから一瞬目を見聞いたアシルだったが、恐いという思いはすぐになくなった。 このお婆さん、全然恐くないじゃん。 ほんの数分話しただけだったが、それでもそう思えるだけの優しさがこの老婆からは伝って来た。少なくとも得体の知れない者の恐しさは無い。 「それは?」 桃色の液体を指して尋ねると、老婆は優しく目を組めた。 「熱の病にに効く薬です」 アシルは再び目を見開き、老婆と薬を見比べた。 魔女は恐しい者だ、常人には操れない技を操つり、見えないモノを見て知らないモノを知る。だがそれ故に、魔女の作る薬の効き目は絶大だと言われている。 「欲しくはないですか?」 問われて、それでもアシルは答えられなかった。迷っているというよりも、どうすれば良いか見当も付かないアシルに、 「私を信じてこの薬を受け取るもよし、貴方の思う所を信じて森を抜けるのもよし」 思う様になさいと老婆は応じた。 アシルの中では本当のところ、既に答えは出ていた。最後になる好物をあげるより、生きれるかもしれない望みにかけた方が遥かにましだ。それでも答えを迷うのは老婆が信じれないからではなく、 「オレは、薬の代わりに差し出せる物を持っていません」 魔女の薬は高いと言われていた。王や貴族にさえ買えない薬もあると聞く。 アシルの真剣な物言いに、老婆はコロコロと笑った。 また、お金とは言わなかった事にも好感を持った。「金ならいくらでも出す」そういう人間にはうんざりしていたから。 「貴方からお金を頂くつもりはありませんよ」 「じゃあ代わりに、何をすればいいですか?」 少年は必死だった。けれど、魔女を相手に代価を決めずに取り引きをしてはいけない、そう聞いたことがあった。それは何かの御伽噺だったかもしれないけれど、それで痛い目に合う人も確かにいるのだ。 老婆は嬉しくなってきた、賢い子は嫌いじゃない。賢しいだけなら鼻につくが、この子供はそれ以上に優しい。優しくて賢いから自分の身丈以上を望まない。 (別に代価を要求するつもりは無かったのだけれど) そう考えたが、老婆は少年を試してみたくなった。 「そうね、ではお使いを頼まれてくれますか?」 「どこへ、ですか?」 「そんなに遠くではありませんよ」 使命感を帯び緊張する瞳が好ましく、老婆は微笑んで言葉を続けた。 「この瓶を帰しに来て下さい」 アシルはきょとんとした目になって老婆を見つめた。 「それだけで、いいんですか?」 「ええ、それだけです。ですが、貴方が帰しに来なくてはいてないのはこの魔女の住む森の奥にある、私の住み家までです」 出来ますか?と尋ねる老婆に、アシルは迷うことなく頷いた。 「それと、日にちを決めておきましょう」 そう言って老婆は空を見上げた。 「昨日は満月だったわね」 少年に尋ねる訳ではなく呟くき、決めました、と手を打った。 「この薬で貴方の妹が助かったなら、来年の今日、満月の翌日にこの瓶を森の奥の私の家まで持って来て頂戴」 「来年、ですか?」 「そう、来年。決して忘れてはダメですよ。もし忘れたら、貴方の妹を頂きます」 「マールを?」 「マールと言うの、可愛いらしい名前ね」 アシルの目に老婆が初めて魔女らしく見えた。今までの人の良さそうな老婆ではなく、底の知れない恐しい何かだ。 アシルの目に怯えを見た老婆は、 「大丈夫よ、食べたりなんてしないから」 冗談めかして微笑んだ。 「もしも約束を違えたならば、貴方の妹マールには私の弟子となってもらいます」 最近は魔女のなり手が少なくて、とまるで愚痴のように呟いた。 「あの、それオレじゃダメですか?」 つい口を突いて出た。魔女の弟子なんて楽しそうだ。 「あら貴方、魔法使いになりたいの?」 問われて赤くなってしまう。 「でもダメよ、それでは貴方への罰にはなりませんから」 そしてほんの少し落胆する少年に老婆は、 「貴方が本当にそれを望むのなら、それこそ森の奥へいらっしゃい。でも、来年の今日までは来てはダメですよ」 アシルは絶対に森へ行こうと心に決めて、老婆の差し出す薬を受け取った。 家に帰ると両親にこっぴどく怒られたが、老婆に言われた通りに薬を飲ますと次第にマールの熱は下がり、三日後には自分でミルクのお粥を食べれるようになった。 両親には魔女の薬だという事は話したが、魔女の出した条件は話さなかった。話したら魔女の怒りに触れると言うと、誰もそれ以上アシルを問い詰めなかった。